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Vol.18: ヴェネツィア

2011年05月07日 23:42

温故知新。「未来ちゃん」だけでなく、「過去ちゃん」がいてもいいと思う。

ヴェネツィア今回の大震災にあたり、被災地における津波に地盤沈下、そしてこの東京でも地面液状化など、下町愛好家としても非常に悩ましい結果となってしまった。そこで思いが行き着いたのが「世界の下町が知りたい」ということだ。小生はこのGWを利用して西欧の低海抜都市、ヴェネツィアとアムステルダムを徘徊するにいたった。なかでも日本と同じ火山・地震国家であるイタリア。マルコ・ポーロ国際空港から、ヴェネツィアの西方見聞録を綴らせていただきたい。

「水の都」と称されるヴェネツィアは、現在では鉄道と橋によってヨーロッパ大陸とつながっているが、もともとは大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によってもたらされた湿地帯の島である。なぜわざわざこのような足場の悪い湿地帯の干潟に住む必要性があったのか、それは5世紀のゲルマン人の侵攻からの避難と防衛のためであったとされている。そんな逆境からはじまったヴェネツィアが、その後15世紀にはヨーロッパ屈指の軍と富と外交力を持ち、地中海の制海権をおさえる海上軍事国家にまでいたったというのが面白い。

今このマチを歩いていても、ご存知の通り自動車や自転車が通れる道はなく、あくまで移動手段は運河の船か路地の徒歩だけだ。すべての運河に張りめぐらされた路船図は、東京の地下鉄の路線図と大差がないほどの複雑さ。老朽化した建物が傾いている様子もチラホラとお目にかかれる。資源のないヴェネツィアは貿易と外交と技術で生き延びてきた。おかげでイスラムのモスクを思わせるエキゾチックなキリスト教会など、ミーハーな文化吸収の内包力に満ち溢れて現在の独特な景観を形成している。その意味では日本、そして東京と似ているかもしれない。東京とただ異なるのは一見バラバラに見えるヴェネツィアの建造物でも、屋根瓦の色はオレンジ色に統一されているということだ。

IMG_1635.jpgそんなヴェネツィアには東京と同じようにカウンター式の大衆酒場「バカリ」もある。なかでも15世紀から生き抜いている店まであるのだ。そんなオスマン・トルコ繁栄期の時代からあるお店でさえ、今も野菜巻きやベーコン巻やアンチョビトーストなど、楊枝で刺された100円~の一品料理をアテに、グラスワインが200円~で愉しむことができる。店内も決して飾ることなく、現役で大衆の笑い声に溶け込んでいるから不思議なもんだ。リアルト橋周辺にはそんな汚さも美しさに消化しているバカリばかりのハシゴ酒が楽しめる。

現在のヴェネツィアは水害や地盤沈下や建造物の老朽化の影響で人口流出の問題にも直面しているが、一方でヴェネツィアの遺産価値を守るために残った人で一致団結した街でもある。過去においても、オスマン帝国やスペイン・ポルトガルによる制海権奪取、さらにはナポレオンのイタリア侵攻などによって、海上軍事国家としての地位が崩壊すると、資源のないヴェネツィアはこれに対し、ヴェネツィアン・グラスやレースなどの一流工芸品の産出地としての地位を築いた。そもそもが逆境スタートだったヴェネツィア。この巧みで柔軟なブランディングのシフトは、ヴェネツィアを愛し、自分たちのポテンシャルを把握した住民の団結力がないと成しえなかっただろう。

ヴェネツィアまた、その長年にわたって住んできたマチの景観自体に文化遺産的価値を見出し、ようやく1987年に『ヴェネツィアとその潟』として 世界文化遺産登録を達成。 そしてヴェネツィア国際映画祭の定続的な開催など、文化水準の高さから現在でも憧れの地というブランドを保ち、かつてはただの水浸しの干潟であったヴェネツィアが、今ではヨーロッパ屈指の観光地として君臨している。世界単位においても「水の都といえばヴェネツィア」としての確固たるブランドは行き届き、堺や蘇州は「東洋のヴェネツィア」 、ストックホルムは「北欧のヴェネツィア」などと、決して本家の地位は譲らない。

かつてゲルマン人に追われてヴェネツィアの干潟に住んだ人のように、人がその土地に住むという理由には必然がある。そしてその後もその土地に人が愛着をもっていくのには、その必然の歴史がある。度重なる水害があろうと美しい土地と評価される背景には、「サンマルコ広場の浸水も風物詩」とその土地に愛着をもって住んだ人がある。

ヴェネツィア東京のベイエリアはどうであろうか。とっさに海が埋め立てられ、とっさに海抜0mの場所から高さ200m近くの高層マンションが作り出され、とっさに「さあ、都心に近くてベイエリアの眺望があなただけのものになるよ」とブランドが打ち立てられる。そこにステータスを感じてとっさに賃貸で移り住む人は、そこで水害を目の当たりにすれば、とっさにその土地を捨てて高台の低層住宅へと逃げるかもしれない。そして津波や放射線で壊滅的な被害を受けながらも、またその土地に戻ろうとする被災地の住民をテレビで見ては、「なんで戻るの?」と口にするかもしれない。

そんな東京の臨海高層住宅の徘徊を後にし、月島から佃に少し入ると、江戸・戦前から続く昔ながらの木造住宅街に遭遇する。マチは古木の茶一色で、干された白い洗濯物もコントラストが効いて美しい。この佃の発祥は、家康が関東下降の時代に野ざらしだった江戸に漁業をもたらす必然から、大阪の漁夫をこの砂地に招いたことに由来する。そして「佃煮」が、この佃の住民が小さすぎて出荷できない魚を自家用に保存食としたものが発祥とされているのはご存知の通りだ。醤油と砂糖で黒くなるまで煮詰め、お世辞にも綺麗とはいえないこの佃煮だが、頬張るとヴェネツィアのバカリで食べたどんな肴よりも唾液腺を刺激する旨味がある。もんじゃ焼とは大きな差だ。

新しいものだけに振り回されがちな今の東京にも「温故知新」という言葉がある。「未来ちゃん」だけじゃなくて、「過去ちゃん」という名前がいてもいいと思う。この東京というマチのゆるキャラに「未過ちゃん」はどうか、などと妄想し、また東京下町に新しい一歩を徘徊に提供するのであった。
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