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Vol.3: 柴又

2009年11月28日 23:22

Image4921.jpg葛飾は江戸川の賜物。矢切の渡しで三途の川まで。

初回に取り上げた立石が濃厚な界隈であったが、今回はご存知の柴又へ。立石と同じ葛飾区内のため、小生も立石のついでに柴又へと足を運んだのであるが、あまりの眩しさに圧倒されたのだった。

立石からはまず京成押上線下りを10分ほど乗り、高砂で古い車両の京成金町線へと乗り換える。休日の昼時は20分に1本ほどしか線がなく、マイナー路線とはいえ相当な人が乗り込んでくる。都心に程近いとはいえ、この交通の不便なところに不思議と観光気分がかき立てられるのだろうか。頭上の路線図に目をやると、合計3駅しかない京成金町線。しかし高砂、柴又、金町と勇ましい訓読みの三役が勢揃いである。

Image5001.jpgほどなくして使い古しの京成列車で1駅の柴又へ到着。なんと乗客の8割が柴又で降りるではないか。改札のある反対側のホームへの移動は、階段で地下を潜らず、踏み切りで線路上を渡るのが江ノ電のようでまた良い。その改札から出てみればいきなり寅さんの銅像が出迎え、カメラを持った人がそれに群がるという一級の観光地の光景。奥の帝釈天へと続く参道のさらなる賑わい見てみれば、それこそ鎌倉にでも来たかのような気分になる。

ただし、駅を出るや否やまず臭うトタン作りの大衆酒場「春」の煮込みや、40年は続いてるであろう立ち食い店でそばを腹巻姿ですすっている老人の背中を見ると、嘘のない東京下町の地元民の生活の痕跡が見られて良い。

Image4891.jpgそんな駅前に背を向け、参道を帝釈天に向かいてくてくと歩く。何より目立つのが鰻・どぜう料理や川魚の佃煮の看板の数々。また少し路地に入ると「佃」さんという家の表札も見え、柴又とは「江戸川の賜物」であることを実感する。さらに草だんごや塩せんべいといった名物の誘惑を堪えつつ参道を前へ前へと進み、若干右へカーブすると、いよいよ現れた柴又帝釈天の大きな二天門。

テレビで見慣れた景色とはいえ、寛永6年開創の帝釈天はさすがに立派である。何より驚いたのは立派な庭園(この時期なら紅葉も楽しめる)と、帝釈堂の後部の外面の巨大な浮き彫りが有料で見学できるということだ。(しかしこの浮き彫りの名前が「彫刻ギャラリー」とされており、一見何のことなのか分からないのが残念だ。)

Image4971.jpgそうして、もうひとつの有名な"矢切の渡し"を見に江戸川へと向かう。野球少年だらけの河川敷のなか、ほっそりと実際にまだ"渡し"としての事業が行われている。100円で千葉へと舟で越県できるのは魅力的だったが、三途の川を渡るかのような御年配の列(失敬)を見て引き返すことにする。

もう一箇所立ち寄ったスポットは、江戸川の河川敷の少し離れたところに新たに設置された「寅さん記念館」である。個人的に「男はつらいよ」に縁はないので館内に感想はないが、この記念館が設置されたことによって、駅←(帝釈天)→矢切の渡しの単純往復だった柴又の観光ルートに変化と回遊性を与えているのだ。

Image4871.jpgまた、それを補うよう街の路地のいたるところに通行案内板と現在地を印すマップが設置されており、年寄りを迷わせない徹底的なユーザビリティが施されている。路地を自分で開拓したい若者の冒険精神からみれば押し付けがましい案内情報に囲まれている街かもしれないが、少し下町を散歩してみたい人の入口として柴又はもってこいである。

江戸時代からのシンボル・帝釈天と、昭和のヒーロー・寅さん。自分たちの持てる素材と、度を越さない自分たちの器の大きさをきちんと自覚し、それを最大限に分かりやすくお客さんに提供する。なので飾らずそこで生活している住民ひとりひとりの姿も観光資源なのだ。東京下町の中でもっとも自然なままブランド化された街といってもいいだろう。



今回の徘徊ルート

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Vol.2: 昭和の下町と江戸の下町

2009年11月22日 00:37

目先の数字より、老眼から見ゆる亀の甲羅干し。

Image5811.jpg一概に東京の下町といっても、その街の性格は大きくふたつに分かれる。「レトロ」で括れるのは両者ともに共通しているが、そのレトロさをどの時代に置くのかで変わるのだ。ひとつは他の新興アジア諸国の都市に見られる雰囲気に近い、雑多で活気の楽しめる"昭和"の高度成長期時代の面影を残す街。一方のもうひとつは昔の佇まいのままの寺社が残されており、"江戸"の風情をほのかに今に残す、静かでどこか落ち着く街である。(浅草のようにその折衷した存在もあるが。)

前者の方は下町を歩けば自ずと見かけることができるが、関東大震災や東京大空襲という決定打のあった東京で、後者に出会うのはなかなかに貴重である。そんな後者の例として挙がってくるのが、ご存知の谷中、根津、柴又、東向島などであろう。

後者の方がその歴史の長さゆえにどこか洗練された印象を与えるのか、惹きつけられた若者の手が入りやすく「レトロ・モダン」としてブランド化されやすい。知人にも下町出身の方がいて、23区東部では珍しく東向島で「江戸前アートプロジェクト」と称したDJイベントを「東向島珈琲店 Pua Mana」で開催している。

とはいえ、江戸以前の風情を残している街が、鎌倉や川越のように若者の持ち込む古民家カフェやアトリエなどの欧米文化によって再生されることの善悪は分からない。ただ、江戸文化から欧米文化吸収の明治文化への幕末の流れのように、このマチ(クニ)を再生したいと思う若者には、「大好きだから、このマチ(クニ)を良くしよう」という純粋な上向きの一辺倒さがある。工場があるから必然的に飲み屋街として栄えた昭和の下町との決定的な違いである。

Image5571.jpg昭和戦後に栄えた新興の下町は"経済"向上のための集まりとして生まれたものであるが、根津や千駄木といった江戸から残る下町は明治維新後も"文化"の取り入れによって今の洗練されたかたちとなっている。川端康成、北原白秋、高村光太郎、永井荷風、森鴎外といった先達が持ち込んだ文化の賜物であろう。谷中や東向島に古民家カフェを設ける今の若者が、そういった未来の先達になることを願う。そうして23区東部の江戸としての下町が先輩として盛り上がるうちに、周りの昭和としての下町も歳を取っていけば、昭和戦後に作られた民家にカフェを設ける若者の時代にもなるだろう。

今の段階では川越のような「小江戸」に勝てる江戸が東京には存在しない。しかし、江戸が東京に残っている限り、小江戸に勝てる江戸を東京で再生できる可能性はある。

「亀有から亀戸に引っ越しました。」こんな粋なメールを楽しめる時代を楽しみに、小生も歳を取ってみようと思う。

Vol.1: 立石

2009年11月18日 22:53

25元や100バーツで楽しめる、貴重な東京・アジアの一角

現在30歳の小生、育ちは山手でも下町でもない板橋である。板橋の周りの友人たちの多くの趣向は、歳を取るとともに杉並・世田谷方面へと南下していったが、小生の気持ちは東へ東へと向かい、その気持ちが高まれば高まるほど、踏み入る地の海抜はほぼゼロメートルへと下がるばかり。昨年にようやくどの下町界隈にも交通の便がよい西日暮里へと引越し、30代のスタートを下町徘徊とともに切ることになった。つれづれなくしたためる備忘録を、どうか温かい目で見守っていただきたい。
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最新の下町徘徊録


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