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Vol.17: 孤酒坦々

2011年02月20日 19:29

大衆酒場は現実のソーシャルネットワークだ。

立石男には独りの箱庭が必要だ。自分だけの空間と自分だけの時間。しかしこの不景気の中で、書斎を気軽に持てる裕福な暮らしはなかなかに難しい。そんな方におすすめしたい。スマートフォンを片手に酒場に足を運べば、そこが1時間1000円で自分だけの時間を愉しめる気軽な書斎へと変貌する。

独り酒はいい。そんな独り酒を愉しむにしても、バーを好む人と、日本の大衆酒場を好む人で二分される。小生としては、断じて大衆酒場をおすすめしたい。同じカウンターに座るにしても、乾き物メインのバーと異なり、大衆酒場には煮付けやおひたし、ポテサラをはじめとする種類豊富な小鉢や、モツに鶏に野菜の串焼きと、多様な日本の食文化が凝縮している。一人暮らしの期間の長い小生にとって、大衆酒場は栄養補給においても欠かせない存在だ。

大衆酒場では、その滞在時間をどう使おうが自分次第だ。考え事や読書がしたい時には、賑やかな明るい声をBGMに自分だけの時間を作ればいいし、気の会いそうな会話が横で展開されていれば、小鉢をお裾分けにその人たちの会話に混じってもいい。耳を澄ませてみれば、酒場巡りや野球や写真や鉄道や文学など、多種多様な話題に満ち溢れていることに気がつく。ある意味、大衆酒場の空間とは自分の興味本位でお互いが会話をフォローし合える現実のソーシャルネットワークなのだ。(現に小生も酒場での出会いからTwitterやFacebookアカウントを交換したケースも多い。)

立石さらに素晴らしいのは、ほろ酔いの呑み助同士の語りにはTwitterのような文字数制限はない。職場での言動も、あくまで論理的かつ簡潔な表現が求められるだろうが、酒場で気軽に知り合った大将や客に対しては、論理的に語ることは野暮でしかなく、お互い興味のあることは文字数など気にせずだらだらと話し合って共有すればいい。

ロンドンに3週間ほど滞在していた間に、現地の立ち飲み屋(パブ)で殴り合いの喧嘩を2度も見たが、東京の大衆酒場でそのような現場を目撃したことは一度もない。その違いは一目瞭然、「勝手」と「自由」の差だ。客が店主の顔を知る必要もなく、タラか何の魚かも分からぬフィッシュアンドチップスとビールをカウンターで買って自席に戻るパブのスタイルでは、店の人も客が何杯飲んだのかも把握せず、勝手気ままな労働者の愚痴の掃き溜めとなっている印象が拭えない。

モツ煮一方で日本の酒場では、大将が客の目の前できちんとした料理を作り、客もその仕事ぶりの様子に見惚れ、堂々としたその腕から「あいよ」と料理が振舞われる。そして客が仕事の愚痴を言おうものなら、「しみったれた話はやめたほうがいいよ」と、客が飲みすぎたときには「その辺にしときな」と、大将が「お上」として機能する。あとは客が自由にその場を過ごせばいい。客も大将に、「この値段じゃ大変だろ。こんな美味いんだったら、値段を倍にしても頼んじまうよ。」と答える。客はそんな酒場の居心地の良さを総合力で評価し、より良い酒場を探して選んでふらっと行けばいい。店主もプロなら客もプロ。相乗効果の粋なユーザー至上主義が東京の大衆酒場では当たり前だ。

そんな当たり前のように世の中には色んな人がいる。小生の親は、生真面目な国家公務員の父と、ヒッピー上がりの母。価値観もまるで逆だ。部屋の通路にしても、「通路というのは通るためにあるものだから、物を置くんじゃない」という父と、「毎日通る通路なんだから、楽しく飾らなきゃね」という母。親二人の個性がそうであれば、場所を取らず飾れるように、絵を描いて壁に飾ることで自分の個性を自由に愉しめばいい。それが日本の愉しみ方だ。

おっと、この店でスマートフォン片手にここまで書くのに何杯のホッピーを呑んだのだろう。大将、お勘定。居心地のいい店だったよ。
次にもう一軒寄ってみるけど、またここにも来るからね。
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Vol.11: ローリング立石様

2010年02月28日 22:15

街の血管はただロールし続ける。

霞ヶ関駅の血管この半生において、自分で自分に苦痛を与えることなどなかった小生は、恐縮ながら端的にいえば快楽主義者である。

過去の栄光ではあるが、確かに高校時代には剣岳や槍ヶ岳をはじめ、北アルプスを10日間かけて縦走した経験がある。しかしそれは単に当時「高いところが好きだった」という動機だけであり、「333mの東京タワーより10倍近い快楽を夏休み通して味わい続けられる」というワンゲル部員の口車に乗せられたからである。また、確かに小学時代に中距離走を続け、そこそこのタイムを出した時期がある。しかしそれは単に「速く走れればモテる」という快楽が保証されていたからである。

高校・大学、そして社会人へとコンクリートジャングルに歩を進めていくにつれて「速く走れればモテる」保証は神話と化し、ただ純粋に快楽を求め続けた結果、最終的に裏切らぬ親友関係を築いたものが酒とタバコであった。しかし、快楽の盟友として行き着いたはずの酒とタバコが、逆に三十路となった今では体に苦痛をもたらすものへと変容し、「快楽」と「苦痛」の関係が逆転してしまったのである。

浅草橋駅の血管その三十路の小生は、子どもの頃より親の影響でロックンロールに傾倒しており、「ロック=快楽の象徴」を体現するストーンズやデビッド・ボウイといった好き放題の”ワルい”生き方に憧れてきた。しかし、もう還暦周辺のミック・ジャガーやスティーブン・タイラーは、昔からの”ワルい”ルックスを今も保つために、禁煙とトレーニングというかつての「苦痛」を「快楽」へと逆転させ、ストイックな節制に勤しんでいるそうだ。「ロックなのに健康など裏切られた」と捉えてしまう自分の心の狭さに反省したものだ。

考えてみれば小生が社会人になって体を動かし、健康な汗を流すのは逆にロックフェスの時くらいのもの。それを思い出して下町散策で試してみたのだ。イヤフォンから爆音でロックを流しながらテンポに合わせて体を動かす。根津の三浦坂を上る時はゆったりとオアシスでも、逆に善光寺坂を下る時は追われるようにツェッペリンでも、へび道はグルーヴィーにマディ・ウォーターズでも。すると途端に谷中墓地の緑が苗場の森へと、そして不忍池へと抜ける景色がグリーンステージへとシンクロしたのだ。

八丁堀駅の血管ロックで健康になることは決してロック魂への背徳ではない。むしろ健康でなければロックし続けることはできない。忌野清志郎の分まで長生きしたい。

しかし自分だけの健康と快楽のためにイヤフォンで耳をふさいで下町を歩くのは、下町に対する冒涜ではなかろうか。この下町が荒川氾濫で水没すれば、住民の声に耳を閉ざした小生は、ノアの箱舟に乗り込んでひとり世田谷の高台に逃げ込む気ではなかろうか。

「転がる石に苔はなし」のRollong Stonesのロック(石)を聞きながら、転がることを忘れた立石様を拝みに行くことで、その回答を得ようとするのであった。

Vol.9: 亀アリ金ナシ飴リカ

2010年01月25日 00:15

Image793.jpg見返りは素材と自分との距離を遠ざける。
得た価値は自分の足で見つけるものではないか。


現在日暮里でひとり暮らしの小生。転々と住む場所を移しながらもリクガメとともに6年近く生活している。アフリカのチャドという国のサバンナから来たケヅメリクガメという種類だ。カメといっても体重はすでに25kgを上回り、中型犬用のケージがすでに狭いくらいである。最初にペットショップで購入した時には手のひらサイズであったが、いやはや、チンゲン菜や小松菜といった草食性でここまで大きくなるとは。今回は下町徘徊録はカメとともにお休みし、カメともに部屋を徘徊しようと思う。

しかし6年間連れ添っても、このリクガメが飼い主のことを認識しているかは謎である。小生の顔よりも小生の手のほうが好きなようで、手を見せればすぐに近寄ってくる。どうやら餌をくれる人格として手を認識しているようだ。餌に関しては、小松菜は大好物でホウレン草にはいっさい口をつけないほどのグルメだというのに。

070819_122607.jpgそんなグルメかつ大食漢のこのリクガメだが、体温の上がる夏場においてはキャベツを2玉も食い干すこともあり、野菜価格高騰の時期には即席麺で3食を凌いでいた学生時代の小生の1日分の食費を上回るほどである。

ひと通り食したあとには、人間のようにぷすうと屁をこき、野菜の芯を枕にして見事にあくびをして眠る。目をつむったあとに聞こえる寝息もかわいいものだ。飼いはじめたときは、きゅっと甲羅に身を収めて寝ていたものだが、今では環境に慣れ、頭と肢体を伸びきっての就寝である。

そんなリクガメに対する愛情は純然たる小生からの一方通行。見返りなど求めたことはない。ただお前がいて小生がいる。リクガメよ、腹が減ったか。リクガメのケージの上で生ゴミとなるリンゴの皮をむき、皮をリクガメが食べ、リンゴを小生が食う。

ペットをはじめ、購買物、観光地などなど。お金を払った分の見返りを求めるこの世の中。見返り分を必死に奪い返すために事前情報を得ようとパンフレットやガイドブックを行動前に読みあさる。しかし、例えば、行き先の土地に対して事前に理想のルートを決めてその通りに現地を行動しては、現地のありのままの生活を体験することはできない。見返りは素材と自分との距離を遠ざける。見返りを求めるよりも、そこに素直に足を踏み入れてみて、得る価値は自分自身で見つけるものではないか。

05.jpgさてと、落合、浦和、日暮里と住む場所を共にしてきたリクガメよ。次に住むマチでも歩いて見つけようか。

引越前になれば冷蔵庫を空にしなければならないな。できるだけ中に入っているものを全て体内へ移動させなければならない。まずはやむなくビール2リットルを完飲。小松菜とモロヘイヤの束はリクガメ小屋へ。皿も全て処分してしまったので、キャベツをちぎって頬張り、そのままドレッシングを完飲か。やはり頬袋精神の小生は生ゴミでもなく、冷蔵庫以上の粗大ゴミだな。

まれに口の中で上手く発酵するものもあるかもしれないと信じて、さあ、リクガメ君、亀有か亀戸か。永い人生を生かして次のマチを探そうか。おいおいカメよ。その短い足でいったいどこまで歩くのだ。

Vol.7: 立石の笑い飯

2009年12月24日 22:53

ひとの人生へのツッコミよりも、自分なりのボケを築く楽しさと難しさに出会う。

Image776.jpgとある週末、飲み過ぎて終電で寝過ごしてしまう。 当然にもう折り返しの電車はなく、駅でタクシーを拾おうとしたが、この100mの行列では並ぼうという気にはならない。酔い覚ましに大通りまで歩いて拾うことにした。
ようやく空車のタクシーを捕まえ、中に乗り込むと、おそらく還暦ほどの運ちゃんが尋ねる、「どこ行くらか?」。

この"ら"は何なんだと思いつつ行き先の家を伝えて出発し、3分ほど沈黙が続いたが、唐突に「え? 駅に戻って一緒に飲むらか?」と切り出してくる。この一方的な疑問文は何なんだと思いつつ、冷静に「朝早いんすよ」と返答する。

Image777.jpg信号で止まったところに目に付いた「うどん・すし」の店の看板に反応したのか、「うどんとすしは合うらか?」と尋ねてくる。「どうなんすかね」と返すと、「最近の若いもんはうどんの上にすしをのせるらか?」と聞いてくるので、「のせる奴いますよ」と、そこはあえて流れに任せてみる。「戦時中はそんな贅沢はできなかったら。」と返答してくる。「え? 運転手さん、おいくつっすか?」と尋ねると、「昭和22年生まれら。」と普通に返してくる。既に太平洋戦争は終わってるのに、この性格なら色々と人生の中で衝突はあったんだろうなと納得する。


Image786.jpgそんな小生はこの運ちゃんのちょうど半分の人生。この12月に31歳の誕生日を迎え、「三十路」という単語を用いて「なんちゃって30代」の気分を楽しめる1年もあっという間に過ぎてしまった。おしゃれカフェでほっこりするより、立石のモツ焼屋「ミツワ」でしっぽり楽しんだ誕生日の夜を思い出す。すべて180円のモツ皿、なみなみ注がれた180円のストレート焼酎。狭い店の中は50過ぎのおっさんばかりだが、愚痴は聞こえず、会話がすべて笑い声とともに放たれている。「おめえは中学校ん時から馬鹿だったっはは」、「おめえなんて小学校から馬鹿だったっはは」、「うちの親が馬鹿だからしょうがねえっはは」、とことんまでゴールのない会話をかぶせ合いながら、千鳥足のふたりが笑い合って肩を組み、狭い店内を出て立石仲見世商店街の共用の便所へと連れションに旅立っていった。


Image778.jpg気持ちのいい転寝から覚めると家の近くに着いており、狭いタクシーを降りようとしたところ、運ちゃんから「あんた、タバコ吸うらか?」と言われてうなずくと、おもむろに運ちゃんから手渡されたタバコが"わかば"だった。

「戦時中によく吸ったんら」と、屈託のない満面の笑みで話す運ちゃんのサービスのすべてを前にしたら、それが天然か確信的かという疑いの分岐など、どうでもいいほどに小さなことであった。

Vol.5: ナイトレイン赤羽

2009年12月05日 20:57

ロスジェネの一切の物質的なものは、そのまま空にすべきか。

Image2561.jpg20代に埼玉で暮らしていた頃の話になる。2時間の飲み放題でどれだけのピッチャーを空にするのかが、鍋の中を空にするよりも優先であった。

そんな週末の深夜、気付けば赤羽で便器を抱いている。何を食べ、何を飲んだのかも覚えておらず、ただ赤羽の便器を抱いている。

「せ・し・す・する・すれ・せよ」

常に吐く時はサ行変格活用を頭で読んで吐く癖(へき)がある。「せよ」で吐けるからだ。いや、学校教育で学んだことを社会人になっても生かしたい。社会に出て活用することのないサ行変格活用をせめて嘔吐に活用しているのかもしれない。

何を食べ、何を飲んだのかも覚えていない小生。涙目で吐いた成果物が便器にこぼれゆく際にかほりが湧き立ち、便器という泉から精霊が現れる。「あなたの落としたものは、金の斧か、銀の斧か」と。小生は成果物を凝視する。もしかすれば、今日食べたものはフォアグラか、キャビアかと。いや、形が残るこのもやし、この玉葱。これは焼きうどんに間違いない。

小生は男三兄弟の次男坊。親にとって長男は当然に金の斧で、三男はいつまでも可愛い銀の斧。子供時代に3人でステーキ屋に連れて行かれても、「僕はハンバーグが好きだから」と、親の金を気にして安物好きを演じていたら、いつの間にか安物しか口に合わなくなってしまった。

精霊、小生に選ぶ権利なんてない。やっぱり小生は焼きうどんを落としたんだ。

Book_01.jpg親は勝手に次男は器用に生きていくもんだと思っている。小生は親にも見られたことのない自分の成果物を見られてもいい友人をつくろう。

そして、吐瀉物でハンバーグを作ろう。
いや、吐瀉物で肉の塊を作ろう。
いや、吐瀉物で自分の子供を作ろう。
そして、吐瀉物で子供を洗う石鹸を作ろう。
いや、吐瀉物で自分自身の思い出を洗おう。
いや、この世にある一切の物質的なものは、そのまま空であろう。

20代に素晴らしい友人に恵まれたことにただひたすらに感謝の念を抱きながらも、最後はどこか自己完結の小生。赤羽という人の賑わいの中で、ただひとり駅の便器を抱いていることにこの上ない安心感を覚えてしまう状況を、30代への積み残し課題とするのであった。


※この記事は過去にmixi日記で投稿したものに修正を加えたものです。
※やや路線が外れてきたので、次はきちんと徘徊録に戻します。


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