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Vol.18: ヴェネツィア

2011年05月07日 23:42

温故知新。「未来ちゃん」だけでなく、「過去ちゃん」がいてもいいと思う。

ヴェネツィア今回の大震災にあたり、被災地における津波に地盤沈下、そしてこの東京でも地面液状化など、下町愛好家としても非常に悩ましい結果となってしまった。そこで思いが行き着いたのが「世界の下町が知りたい」ということだ。小生はこのGWを利用して西欧の低海抜都市、ヴェネツィアとアムステルダムを徘徊するにいたった。なかでも日本と同じ火山・地震国家であるイタリア。マルコ・ポーロ国際空港から、ヴェネツィアの西方見聞録を綴らせていただきたい。

「水の都」と称されるヴェネツィアは、現在では鉄道と橋によってヨーロッパ大陸とつながっているが、もともとは大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によってもたらされた湿地帯の島である。なぜわざわざこのような足場の悪い湿地帯の干潟に住む必要性があったのか、それは5世紀のゲルマン人の侵攻からの避難と防衛のためであったとされている。そんな逆境からはじまったヴェネツィアが、その後15世紀にはヨーロッパ屈指の軍と富と外交力を持ち、地中海の制海権をおさえる海上軍事国家にまでいたったというのが面白い。

今このマチを歩いていても、ご存知の通り自動車や自転車が通れる道はなく、あくまで移動手段は運河の船か路地の徒歩だけだ。すべての運河に張りめぐらされた路船図は、東京の地下鉄の路線図と大差がないほどの複雑さ。老朽化した建物が傾いている様子もチラホラとお目にかかれる。資源のないヴェネツィアは貿易と外交と技術で生き延びてきた。おかげでイスラムのモスクを思わせるエキゾチックなキリスト教会など、ミーハーな文化吸収の内包力に満ち溢れて現在の独特な景観を形成している。その意味では日本、そして東京と似ているかもしれない。東京とただ異なるのは一見バラバラに見えるヴェネツィアの建造物でも、屋根瓦の色はオレンジ色に統一されているということだ。

IMG_1635.jpgそんなヴェネツィアには東京と同じようにカウンター式の大衆酒場「バカリ」もある。なかでも15世紀から生き抜いている店まであるのだ。そんなオスマン・トルコ繁栄期の時代からあるお店でさえ、今も野菜巻きやベーコン巻やアンチョビトーストなど、楊枝で刺された100円~の一品料理をアテに、グラスワインが200円~で愉しむことができる。店内も決して飾ることなく、現役で大衆の笑い声に溶け込んでいるから不思議なもんだ。リアルト橋周辺にはそんな汚さも美しさに消化しているバカリばかりのハシゴ酒が楽しめる。

現在のヴェネツィアは水害や地盤沈下や建造物の老朽化の影響で人口流出の問題にも直面しているが、一方でヴェネツィアの遺産価値を守るために残った人で一致団結した街でもある。過去においても、オスマン帝国やスペイン・ポルトガルによる制海権奪取、さらにはナポレオンのイタリア侵攻などによって、海上軍事国家としての地位が崩壊すると、資源のないヴェネツィアはこれに対し、ヴェネツィアン・グラスやレースなどの一流工芸品の産出地としての地位を築いた。そもそもが逆境スタートだったヴェネツィア。この巧みで柔軟なブランディングのシフトは、ヴェネツィアを愛し、自分たちのポテンシャルを把握した住民の団結力がないと成しえなかっただろう。

ヴェネツィアまた、その長年にわたって住んできたマチの景観自体に文化遺産的価値を見出し、ようやく1987年に『ヴェネツィアとその潟』として 世界文化遺産登録を達成。 そしてヴェネツィア国際映画祭の定続的な開催など、文化水準の高さから現在でも憧れの地というブランドを保ち、かつてはただの水浸しの干潟であったヴェネツィアが、今ではヨーロッパ屈指の観光地として君臨している。世界単位においても「水の都といえばヴェネツィア」としての確固たるブランドは行き届き、堺や蘇州は「東洋のヴェネツィア」 、ストックホルムは「北欧のヴェネツィア」などと、決して本家の地位は譲らない。

かつてゲルマン人に追われてヴェネツィアの干潟に住んだ人のように、人がその土地に住むという理由には必然がある。そしてその後もその土地に人が愛着をもっていくのには、その必然の歴史がある。度重なる水害があろうと美しい土地と評価される背景には、「サンマルコ広場の浸水も風物詩」とその土地に愛着をもって住んだ人がある。

ヴェネツィア東京のベイエリアはどうであろうか。とっさに海が埋め立てられ、とっさに海抜0mの場所から高さ200m近くの高層マンションが作り出され、とっさに「さあ、都心に近くてベイエリアの眺望があなただけのものになるよ」とブランドが打ち立てられる。そこにステータスを感じてとっさに賃貸で移り住む人は、そこで水害を目の当たりにすれば、とっさにその土地を捨てて高台の低層住宅へと逃げるかもしれない。そして津波や放射線で壊滅的な被害を受けながらも、またその土地に戻ろうとする被災地の住民をテレビで見ては、「なんで戻るの?」と口にするかもしれない。

そんな東京の臨海高層住宅の徘徊を後にし、月島から佃に少し入ると、江戸・戦前から続く昔ながらの木造住宅街に遭遇する。マチは古木の茶一色で、干された白い洗濯物もコントラストが効いて美しい。この佃の発祥は、家康が関東下降の時代に野ざらしだった江戸に漁業をもたらす必然から、大阪の漁夫をこの砂地に招いたことに由来する。そして「佃煮」が、この佃の住民が小さすぎて出荷できない魚を自家用に保存食としたものが発祥とされているのはご存知の通りだ。醤油と砂糖で黒くなるまで煮詰め、お世辞にも綺麗とはいえないこの佃煮だが、頬張るとヴェネツィアのバカリで食べたどんな肴よりも唾液腺を刺激する旨味がある。もんじゃ焼とは大きな差だ。

新しいものだけに振り回されがちな今の東京にも「温故知新」という言葉がある。「未来ちゃん」だけじゃなくて、「過去ちゃん」という名前がいてもいいと思う。この東京というマチのゆるキャラに「未過ちゃん」はどうか、などと妄想し、また東京下町に新しい一歩を徘徊に提供するのであった。
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Vol.17: 孤酒坦々

2011年02月20日 19:29

大衆酒場は現実のソーシャルネットワークだ。

立石男には独りの箱庭が必要だ。自分だけの空間と自分だけの時間。しかしこの不景気の中で、書斎を気軽に持てる裕福な暮らしはなかなかに難しい。そんな方におすすめしたい。スマートフォンを片手に酒場に足を運べば、そこが1時間1000円で自分だけの時間を愉しめる気軽な書斎へと変貌する。

独り酒はいい。そんな独り酒を愉しむにしても、バーを好む人と、日本の大衆酒場を好む人で二分される。小生としては、断じて大衆酒場をおすすめしたい。同じカウンターに座るにしても、乾き物メインのバーと異なり、大衆酒場には煮付けやおひたし、ポテサラをはじめとする種類豊富な小鉢や、モツに鶏に野菜の串焼きと、多様な日本の食文化が凝縮している。一人暮らしの期間の長い小生にとって、大衆酒場は栄養補給においても欠かせない存在だ。

大衆酒場では、その滞在時間をどう使おうが自分次第だ。考え事や読書がしたい時には、賑やかな明るい声をBGMに自分だけの時間を作ればいいし、気の会いそうな会話が横で展開されていれば、小鉢をお裾分けにその人たちの会話に混じってもいい。耳を澄ませてみれば、酒場巡りや野球や写真や鉄道や文学など、多種多様な話題に満ち溢れていることに気がつく。ある意味、大衆酒場の空間とは自分の興味本位でお互いが会話をフォローし合える現実のソーシャルネットワークなのだ。(現に小生も酒場での出会いからTwitterやFacebookアカウントを交換したケースも多い。)

立石さらに素晴らしいのは、ほろ酔いの呑み助同士の語りにはTwitterのような文字数制限はない。職場での言動も、あくまで論理的かつ簡潔な表現が求められるだろうが、酒場で気軽に知り合った大将や客に対しては、論理的に語ることは野暮でしかなく、お互い興味のあることは文字数など気にせずだらだらと話し合って共有すればいい。

ロンドンに3週間ほど滞在していた間に、現地の立ち飲み屋(パブ)で殴り合いの喧嘩を2度も見たが、東京の大衆酒場でそのような現場を目撃したことは一度もない。その違いは一目瞭然、「勝手」と「自由」の差だ。客が店主の顔を知る必要もなく、タラか何の魚かも分からぬフィッシュアンドチップスとビールをカウンターで買って自席に戻るパブのスタイルでは、店の人も客が何杯飲んだのかも把握せず、勝手気ままな労働者の愚痴の掃き溜めとなっている印象が拭えない。

モツ煮一方で日本の酒場では、大将が客の目の前できちんとした料理を作り、客もその仕事ぶりの様子に見惚れ、堂々としたその腕から「あいよ」と料理が振舞われる。そして客が仕事の愚痴を言おうものなら、「しみったれた話はやめたほうがいいよ」と、客が飲みすぎたときには「その辺にしときな」と、大将が「お上」として機能する。あとは客が自由にその場を過ごせばいい。客も大将に、「この値段じゃ大変だろ。こんな美味いんだったら、値段を倍にしても頼んじまうよ。」と答える。客はそんな酒場の居心地の良さを総合力で評価し、より良い酒場を探して選んでふらっと行けばいい。店主もプロなら客もプロ。相乗効果の粋なユーザー至上主義が東京の大衆酒場では当たり前だ。

そんな当たり前のように世の中には色んな人がいる。小生の親は、生真面目な国家公務員の父と、ヒッピー上がりの母。価値観もまるで逆だ。部屋の通路にしても、「通路というのは通るためにあるものだから、物を置くんじゃない」という父と、「毎日通る通路なんだから、楽しく飾らなきゃね」という母。親二人の個性がそうであれば、場所を取らず飾れるように、絵を描いて壁に飾ることで自分の個性を自由に愉しめばいい。それが日本の愉しみ方だ。

おっと、この店でスマートフォン片手にここまで書くのに何杯のホッピーを呑んだのだろう。大将、お勘定。居心地のいい店だったよ。
次にもう一軒寄ってみるけど、またここにも来るからね。

Vol.16: 江古田

2010年12月05日 15:51

すべての矛盾を同居させ、中途半端さに特化する、東京のデビッド・ボウイ。

江古田コンパこのブログで江古田を書くにしても、江古田は下町ではなく地盤の硬い武蔵野台地に位置し、歴史的にも江戸前というよりは武蔵野の田舎蕎麦が香る地域。それは重々分かってる。ただ江古田に住み始めてから、下町中毒の小生もすっかり江古田で飲み歩いて完結する生活になってしまった。ただただその魅力をお伝えしたい。


町工場も高層マンションも多く、中途半端に都会のあった板橋区育ちの小生にとって、いたるところに畑が多く点在する練馬区はそのまま「大根」というイメージであった。とはいえ板橋区には何ら西武の作った娯楽施設はなく、初デートの定番といえば、練馬区でありながら「豊島」の名称を持って都会的な背伸びをする豊島園だった。プールの滑り台の頂上や、ジェットコースターから見下ろせる練馬の田舎光景をネタにデートの会話を弾ませた板橋区民の思春期を思い出す。

そんな中で、城北都民のワンランク上の時間を提供できる場所といえば、練馬区にありながら、小生の中学時代から古着屋もあり、洒落た小さな中古LPレコード屋もあり、眺めるだけで憧れたライブハウスやバーのあった江古田であった。中学時代に洋楽を聞いているのはクラス40人中たった10人程度のなかで、ガンズやメタリカやニルヴァーナの自作Tシャツを着た学生が普通に歩いている日芸に侵入するのがたまらなく楽しかった。

IMG_4600.jpgとはいえ、東京に住んでいる人にとって江古田のイメージは多様だ。池袋~練馬間のマイナーな駅だと思っている人もいれば、高円寺や下北沢と比較する雑多な若者の街を想起する人もいるし、”江古田ちゃん”の住んでいそうな中野のサブカルを凝縮した「裏中央線」の印象を持つ人もいる。それに日芸・武蔵野音大・武蔵大の三大学がひとつの駅周辺に集結している学生街だということも忘れてはならない。とはいえ、決して整備された「学園都市」ではなく、あくまで「小早稲田」的な「学生街」、これが重要だ。

金曜日終電近くの江古田駅前の名物光景といえば、大学生たちが干された鰹節のように飲み倒れた光景だ。「お前は今日、最高に頑張ったよ!」と声をかけながら、合コンに敗れた仲間の背中をさすって嘔吐介錯する微笑ましい友情光景。しかしさすがに小生も心配になり、自販機で買った水を差し伸べるが、「あ、大丈夫っすよ」とその友人が言い、その倒れていた仲間も立ち上がる。さっきまで吐いていたのにもかかわらず、「締めに米でも食いてえな」とつぶやきはじめる。

江古田 やぐら七色カクテルで有名なバー「江古田コンパ」の隣に、24時間営業で老夫婦の二人でシフトを切り盛りするおにぎり屋「やぐら」がある。いつ如何なる時もお爺さんかお婆さんがカウンターに立ち、手握りのおにぎりを提供する。何でこんなに歳を追いながら学生の時間を問わない無限な食欲に対する防人のような仕事をするのか。つやつやの米のおにぎりを手渡してくれるおばあさんの指。そんな仕事で荒れた指が、つやつやに磨いた5円玉をいつもお釣にとは別に学生に手渡してくれる。「ご縁がありますように」という満面の笑みとともに。何だろう、この見返りを一切求めない仏のような笑みは。せっかく作ったおにぎりが学生に食われ吐かれているかもしれないというのに。

町自体は何にも特化することなく、入れ代わり立ち代わり学生が新しく持ち込む文化を、時代とともに受け入れては捨てていく江古田は、どこか多様なバックパッカー学生の集うバンコクのカオサン・ストリートと似ている。そして、駅前再開発がなされているが、下北沢と違って反対活動が発生することなく、時代の流れに決して逆らわず受け入れる刹那的な江古田は、どこか仏教的な町である。

江古田界隈「江古田駅」は練馬区に存在するが、練馬区内に江古田という地名はない。練馬区内に江古田駅を置き、「えこだ駅」と西武鉄道は表記したことから、駅の周辺住民は一帯を「えこだ」と読んでいる。しかし、江古田という町名は実際には江古田駅から2キロほど南下した中野区内に「えごた」として存在する。なので中野区を通る大江戸線の新江古田駅は「しんえごた駅」と表記されている。また、江古田駅~中野方面に伸びる「江古田通り」も、練馬区内は「Ekoda st.」であるが、中野区内に入ると「Egota st.」という英字表記になるのだ。だが江古田住民はそれをどちらかに統一しようとも思うことはなく、スーパーに行ってもオバちゃん同士の会話は「えごた」と「えこだ」で交錯する。お互いの方言として認識して干渉はせず、細かいことは気にしない。でもなぜか住民はそんな宙ぶらりんな江古田が大好きなのだ。極めて自由な町である。

江古田市場そんな江古田には何でもある。バーもモツ焼き屋もカフェも市場も洒落たCD屋も。この中途半端さがたまらなく居心地がいい。そりゃ、モツを食うには特化した立石や亀戸まで行った方が遥かに美味い。ファンクを聴くならファンク・バンドの音を聴いたほうがそりゃ上手いし、ロックンロールを聴くならロックンロール・バンドの音を聴いたほうがそりゃ上手い。でも、デビッド・ボウイやベックのようにアルバムごとにジャンルを変えてくる中途半端な緩い音も決して悪くない。

世の中には色んな個性があるし、一人の人格の中にさえ色んな矛盾する構成要素がある。だからお互い見返りなど求めず、ただ同在してしまえばいい。自分が東京でどう思われているかの多面評価は一元的である必要はない。

その中途半端さに特化する江古田は、まるで多神教多宗教の日本の縮図のように思えるほど平和な町であった。

Vol.15: 立石 2

2010年08月29日 19:59

モツを食して内臓を修復。これであなたもタティシエだ。

ミツワの煮込みこの6月に日暮里から江古田へと移り住み、当ブログの更新もぱたりとなくなり、すっかり下町を捨てたなどと揶揄される毎日。小生自身も、ほどほどに雑多、ほどほどにカルチャーあり、ほどほどにのどかな江古田の街に徐々に心を奪われ、戦後までは田畑だらけであっただろう緑豊かな練馬の街並みを爽やかに自転車で走り抜けるという、ヘルシー極まりない生活にすっかり甘んじてしまっている。環七の豊玉陸橋の標識を見れば、亀有まで20kmという下町との距離感。小生はこんなに歴史のない新興都市に踊らされていていいのだろうか。下町から城北気質になりつつある自分に喝を入れつつ、当ブログの原点である立石を再び綴ろうと思う。


世の中にはラーメン博物館が存在するが、立石とは街自体が酒場博物館である。土曜の昼間になれば、首都圏のあちらこちらから呑み助が京成の列に乗って立石にやってきては、昼酒を求めて店々の列に並び始める。日曜は閉まる店が多いため、当然に土曜はどの店も混む。なので平日に有給を取って立石にやってくる助までいるというから驚きだ。

それもそのはず。食べログのマップで立石周辺を見てみるといい。狭い場所を赤い星マークが埋め尽くしている。そんな立石は葛飾区役所のお膝元にあることもあいまって、「下町の首都」さらには「酒都」とまで形容される。なかでもモツ焼きの名店「宇ち多"」は、「宇ち中」や「宇ち入り倶楽部」なるファンサイトまで存在するほどのカリスマ的存在で、下町の大衆酒場において頂点に君臨する。(ちなみに宇ち多"ファンにとっては宇ち多"に行くことを「宇ち入り」と表現するようだ。) 店内にはメニューがなく、客は「レバたれ若焼き」や「タン生」などの暗号の掛け合わせで注文する。この敷居の高さが常連になりたいとさせる意欲を掻き立てる。

蘭州の香菜そばそんな立石の酒場群は美味いのは当然だが、破格なほどに安い。「宇ち多"」や「ミツワ」であれば、2杯と2品で1000円でお釣が来る。慣れた"タティシエ"たちは1店舗で胃と肝臓を満たさず、ほどほどに楽しんだ後には他の店へといそいそと走り列に並ぶ。立ち食い寿司の「栄寿司」に濃厚餃子の「蘭州」に鳥半身丸上げの「鳥房」など選択肢が無限にあり、気付けば最終的には千鳥足で店移動。家族の目を盗んで独り酒を楽しみにきたお父さん、気の知れた男同士、さらにはホルモン好きな食通の女性まで、様々な客層が笑顔で列に並んでいる光景が心地よい。小生はそんな大人のテーマパークの立石を「舌町」と評している。


宇ち多東京西側在住の人は口を揃えて言う。「ホルモンだったら、中野や高円寺や中目黒でも楽しめるじゃないか」と。しかし中野や高円寺や中目黒のホルモン屋は、若者が下町大衆文化に憧れて吸収してから店舗を出した印象が強く、どこか小洒落てしまっている感が否めない。たしかに駅前は下町風情の雑多な雰囲気はあるが、一歩入れば閑静な住宅街という違和感がつきまとう。演出としての瓶ケースの椅子やドラム缶のテーブルの粗雑な店に対して、なぜかビール1杯500円以上を支払うというリアリティの矛盾に。

立石仲見世しかしそれだけのコストを払いながらも立石の味のクオリティには到底及ばない。中野や高円寺には、まるで黒人ブルースに憧れたイギリス白人小僧の「ホワイト・ブルース」のように、どこかプラスチックでリアルなグルーヴがないのだ。もっとマディ・ウォーターズのように"地に足着いたアーシーなロックンロール"がほしい、そんなルーツ開拓の浪漫のある方は、ぜひ「スタンディング・ロック・シティ」に足を運ぶべきだと思う。

そしてちょうど9月4日(土)は町を上げての立石フェスタ。なぜかサンバカーニバルや音楽祭までやるというから、やや期待よりも心配がつきまとう。「中央線沿線ごときに負けねえよ。」そんな無理して若ぶった立石もまた興味深い。応援のため、久々に下町に向かうのであった。

[立石フェスタ2010公式WEBサイト]

Vol.14: 西日暮里

2010年05月09日 22:36

江戸と東京の文化の矛盾が交差する下町のイスタンブール。

Vol.14: 西日暮里しばし続いた東京下町生活にもそろそろ終止符を打ち、6月に都内某所へと引っ越すことになった。充実した下町生活の拠点として大いに機能してくれたことへの感謝を込めて、総力を上げて西日暮里を綴ろうと思う。

西日暮里駅。東京に住んでいる方なら馴染みのある山手線の駅だと思うが、意外に駅そのものの歴史は浅く、1969年の千代田線開業によって地下鉄西日暮里駅が設けられ、山手線側も乗り換え用の駅として田端―日暮里間に1971年に設置した新しい駅である。現在では日暮里・舎人ライナーの西日暮里駅も尾久橋通り上に構えられ、1日あたりの乗降客数が50万人近くに達する西日暮里駅は、首都圏でも主要な通勤のHUB駅に成長した。また、南の上野や東の千住や北の王子へは10分圏内、西の谷根千へは徒歩圏内、駅前からバスを活用すれば三ノ輪経由で浅草雷門にすぐに出ることができる西日暮里は、週末の東京下町巡りにおいても最重要なHUBとなる。

Vol.14: 西日暮里ただ、長期的な都市計画もなく急ぎで駅が設置されたため、駅前にはロータリーもなく、今やこれほどまで客数が成長したのにもかかわらずJR駅の改札口はひとつのみというありさま。何ら都市整備されていないおかげで駅周辺はさまざまな文化要素が混在した街模様を呈しており、少し歩くだけでころころと景色が変わり行く様が非常に面白い。

Vol.12: 谷中」で紹介したように、西日暮里も山手線の内側が寺社と元武家屋敷の江戸風情の残る高級住宅地で、外側が戦後昭和以降の復興街で明確に二分されるのが前提にある。どちらかといえばラブホテルや飲食店の輝く山手線の外側の風景を西日暮里の印象として焼き付けている人が多数かもしれないが、実は関東随一の私立名門校である開成学園が西日暮里にあることを知らない人が多い。ここが西日暮里の面白さである。なぜこんなにも山手線を隔てて街の様子にギャップがあるのかといえば、田端・西日暮里・日暮里の間には山手線を横断できる道路が各々の駅にしかないからだ。

Vol.14: 西日暮里まず西日暮里を訪れたなら、徘徊はやはり山手線内側の高台にある道灌山公園からスタートして、眺望満喫からおすすめしたい。まずは昭和の絶景。東に見える7階建てのラブホ屋上の看板が水平線上に見えることを考えると、山手線を隔ててこちらの高台とは10m以上の海抜差がある。そして道灌山公園から木造建築や寺社の連なる諏訪台通りを日暮里の方に歩くと、西日暮里の中心である諏訪神社が現れ、敷地を奥に進めば、山手線・京浜東北線・高崎線・宇都宮線・東北上越新幹線のビューの拝める鉄道ファン向けの撮影ポイントがあり、さらにこれらのJR線の向こうのラブホの隙間からは日暮里・舎人ライナーの姿を垣間見ることもできる。お次は江戸の絶景。もう少し諏訪台通りを進んだところにある富士見坂は、澄んだ冬には富士山の雄姿を見ることのできる東京では数少ない坂である。このまま坂を下って谷中の方に足を向けてお江戸風情を満喫したいかもしれないが、日暮れとともに眠る日暮里のお江戸。この時間からは山手線の向こうの眼下に光る昭和のネオン街に行くしかない。

Vol.14: 西日暮里先ほど山手線をまたげる導線が数少ないと述べたが、地元民しか知らない秘密の通路が存在する。なんと諏訪神社の奥まで進むと、線路の下へと続く階段があるのだ。その階段の一番下の方には山手線をくぐることのできるトンネルがあり、青電球の光が中から怪しく輝いている。昼でこそ通路として認識できるが、夜に通るには相当な勇気が必要だ。入ってみたらそこは落書きと放置自転車の散らばる空間。一気に抜ければそこは目と耳を喧騒が包み込む。この秘密の通路は「江戸東京のボスフォラス海峡」と形容しても良い。先ほどの静寂からこの喧騒への急激なコントラストの印象を、「文明開化の音」とするか「文明劣化の音」とするかも判断の難しいところだ。

Vol.14: 西日暮里パチンコとラブホテルのネオンは前述の通り。真新しいモノレールの日暮里・舎人ライナーの近未来な高架線の下を、ボロボロに古い京成線と常磐線の高架線や田端車庫へと向かう貨物線が交差するように走る。そう、東京から北~東の鉄道網は、上野よりも先にまず西日暮里~日暮里に集結するのだ。まさに西日暮里は「東京下町への臍の緒」。そんな鉄道客の目に留まるように、ビルは高架線よりも高くなって店看板や広告をアピールし、小香港のような街模様になったのであろう。まるで人の視線を太陽光のように思い、我先にとビルが樹木を伸ばした雑木林のようで興味深い。

Vol.14: 西日暮里江戸っ子は多くは語らず、着物は控えめに小粋に裏地の柄にこだわるもの。いやいや、感情を素直にアピールするのがこれからの東京のモダンなスタイル。モンテスキューなど知らぬままに欧米思想を「個人主義」と単純解釈した結果、看板をどこよりも派手にアメリカっぽく作ってみる。このネオンの過剰なアピールは、アジア諸国同様に、欧米文化に手っ取り早く憧れてしまった結果の喧騒風景といえるのではないだろうか。おかげで太いフォントの飲み屋やラブホの看板だけでなく、アラビアの匂いの強い怪しげなスペイン料理「アルハンブラ」、モツ焼きの名店「喜多八」(吉田類の酒場放浪記でも取り上げられた)、食べログで4点以上を保持する「西日暮里ホルモン」など、多種多様にギラついた名店がこの西日暮里の東地区に混在している。特に「喜多八」は、名物の味噌ベースのモツ煮を求めた客で毎日満員だ。

Vol.14: 西日暮里このなかでも最も文化の交差点の“西日暮里らしさ”を体現しているのが、駅に程近く怪しげな外観を放つ喫茶店「フィレンツェ」である。店名とはまったく関係なく自慢のメニューは生姜焼き定食。店の中に入ればレトロかつファンシーすぎる洋家具と人形がお出迎え。テレビで芸能ニュースを見ているマスターのママが下世話な芸能人ネタで果敢に客に絡んでくる。どうにもITとは縁遠い雰囲気だが、「インターネット無料」という看板があり、なぜか何年も前から無線LANのつながる通信環境を整えている。おかげでWEB業界人の社交場と化しているのか、「西日暮里フィレンツェ倶楽部」なるオフ会が存在し、twitterのハッシュタグで声を掛け合い、フィレンツェでのライブ映像はUstreamで配信されているという先進ぶり。この店、いやこの街の底知れぬ文化の吸収力にはただただ脱帽する。

Vol.14: 西日暮里江戸と東京のさまざまな文化が線路をまたいで存在する西日暮里。元々が山手線の内側のように高台であれば背伸びする必要はない。一方で背が低ければ高くなるために様々な試行錯誤を繰り返す。そんな江戸と東京を分かつのは虹色のようにカラフルなJR列車の束。小生は雑居ビル5階の自宅の荷物をまとめ、虹色のひとつである黄緑色の山手線へと乗り込み、次の東京の引越先へと向かうのであった。


最新の下町徘徊録


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